(cultural) language

なんか立て続けに、「日本語話せたらもっとsawakoと深く話し合えるのにー」とか言われることが続いてる。

ギークな話題は、そもそもはじめから日本語で学んでないので、英語の方がむしろスムーズにいくことが多いのだけど、文化的なことや社会的なこと、人生相談など、それもギーク界やアートという枠組みを超えて、もっと普遍的なトピックに関してだと、やっぱり言葉がつたないなあと思うことが多い。特にニューヨークだと、狭い仲間内以外の人と関わる機会も多いし、異種格闘技戦が多い分、「あなたはだれ?それは何?」ということに対してしっかり言葉で説明を求められるので、ほんとうにコアな領域に踏み込んで行くには言葉は絶対必要で。(英語力っていうよりはむしろ戦略、論理力と説得力。あと、カリスマ性。刀根さんのトークをみててそう思った。)

もともとそもそも、留学をしようと思ったきっかけの1つは、インタビューをうけたり、自分や他の日本人のアーティストの海外での活動をみていて、作品そのもの以外でのコミュニケーションに関して(コンセプトの伝え方、マネージメントからコンテクストづくりなど)、日本でおこっていること、感じてきたこと、その地域特有なやり方やスタイル、などをもっとしっくりくる形で伝えられたらなあ、と思ったことがあり。そのためには、言葉だけじゃなくて、文化的背景や歴史を実際現場にとびこんで体で吸収しなきゃだめだなあ、と思ってたことで。脱お客様状態になりたかったのですね。

私は、アーティストとしての自分の国籍は「ネット社会」だと思っているし、作品の中で日本をとりたてて強調しようとは全然思ってないけど、ニューヨークに住むようになって、「あたりまえの日常」ってほんとに多種多様なんだなあと感じることが多く。そのフィードバックとして、自分が生まれ育って来た環境の輪郭がはっきりくっきりする感じを日々感じてます。ニューヨークに来たばかりのときは、「かっこ悪いなあ」「古くさいなあ」と自分の物差しで一方的に感じていたものに対して、どうして必要とされるのかわかってきたりとか。

だって、夕方にお豆腐やさんのラッパのかわりに拡声器からコーランが流れてたり(うちの近所です、一瞬焼き芋やさんが来たかとかんちがいしました)、小学生のお誕生日会が自家用ジェット機で行くフロリダディズニーランドの旅だったり、legendって数十年前にはよばれてたけど今はひっそり孤独に暮らしていたり、腕にはちっちゃいころ逃げて来たゲリラ戦の傷跡があったり、ダーリンが住んでるので観光ビザでヨーロッパと行ったり来たりの日々だったり、移り変わりの激しい町並みの中うまれたときからかわらず穏やかな暮らしを送っていたり。
そんな日常を体に刻み込んでる人たちが地下鉄で隣り合ってるんだよ。
それはやっぱり私の育って来た日常とはちょっとだけ違うなあ。